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  • 執筆者の写真テニス ジュンレオ

何者?!part3 by Y.SUGIE


皆さん、こんにちは。

今週二回目のブログの杉江です。

何者part3と続きます。

このブログって本当に難しいですね。

ただの自慢かよとならないように頑張りたいと思いますが

私の性格上それは無理かなと思いながら頑張ってみます。

杉江 友祐

東京都東久留米市出身(九州の久留米市ではありません。)

中学校では、バレーボールをやっていました。(軟式・硬式テニス部がなかった為)

バレーボールでもセッターでは、センスがあり1年半位の経験で

東久留米選抜にも選ばれました。( 早速自慢が入ります。)

因みに中学では、後輩に吉川ひなのがいました。

身長がやたらデカかったです。

その当時は、ヨーカドーの広告に出ていました (笑)

高校は、保谷高等学校へ進学して

カラテカ(お笑い芸人)の二人が入学した時の文化祭で漫才を披露していて

度肝を抜かれたことを今でも覚えています。

この高校時代から硬式テニスを始めました。

バレーボールのネットが高校から高くなりジャンプしてちょっとしか

手が出なかったので、これは、世界は目指せないなと感じたからです(笑)

この決断がなければ、今皆さんとお会いすることはなかったでしょう。

そこからテニスにハマり週9回スクールに通いました。

(土日は午前・午後やっていたので)

高校でのタイトルは、東京都立高等学校テニス選手権 優勝 です。

ここで、練習量の大切さを感じました。

練習量があれば、ジュニアからやっている選手に勝てると。

これは、テニスを始めてシングルス初めてのタイトルで以降学生以外では

シングルスで優勝することは、残念ながらありませんでした。

法政大学(経済学部経済学科)中退

カッコよく言えばスポンサーが付き賞金付きの大会に数多く出場できるようになり

大学に行く必要がなくなったという言い訳をしていましたが、

ただ楽を選んだだけですね。

これが、人生の分かれ道になります。

大学時代は、モッパラテニスのみ。

文部科学大臣賞を二回受賞しました。

ここからテニスを26歳までプロとして活動して

26歳からテニスコーチとして今にいたります。

24歳の時に腰を痛めて思うようにプレーが出来なくなったことと

練習量だけでは補えない限界を感じることが出来て、

セカンドキャリアを考えるようになりました。

ここで自分の甘さが出たのが、就職氷河期で高卒の資格しかない私にとって

ラケット開発・販売などを行う予定の某スポンサーより見放され

その当時、練習コートでお世話になっていた立川ルーデンス( 藤野企画 )

に就職させていただき、そこの社長から一言。

横浜勤務な!と、、、、

プロになった後のことなんて、誰も教えてくれなかったですし、

親も言っても無駄とおもっていたことでしょう。

こういうセカンドキャリアについては、テニスを真剣に考えている

子供達には伝えていこうと思っています。

その点、うちの大山コーチはしっかりしていますね!

ここで、聞く耳を持つことの大事さを感じました。

横浜に引っ越しはじめての一人暮らし。

(イメージしていた横浜とは180度違いましたが、、、町が豚臭かった。)

ここで中間コーチと出会いました。

最初は、よくケンカしましたよ!!(( ´∀` )

聞く耳を全くまだ持っていませんでしたからね (-_-)/~~~ピシー!ピシー!

あれから15年ですね。

ここまであっという間です。

誰より僕の方が正確を分かっているかもしれませんね。

まっお互い様かもしれませんが、、、

こんな感じで41歳になりました。

これからの目標は、死ぬまでにテニスで何か残して死にたいと思っています。

だから、DVDやYouTubeをだして自分がやってきたことを残し続けたいと思います。

まるで、もうすぐ死ぬようなブログになってしまいましたが

まだまだ、粘りますよ!

こう見えて結構ドM

#YSUGIE

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